「誤配」について考える。

人文系の学問に興味がある方でしたら、東浩紀の名と『弱いつながり』『ゲンロン0観光客の哲学』(毎日出版文化賞受賞)『存在論的、郵便的』『一般意志2.0』などの著作は耳にしたことがあるでしょうか?

彼の最近の仕事の重要なキーワードは「観光客」(観光客・旅人・村人の三項図式)と「誤配」。
どちらも寅さん映画の面白さにつながるのですが、残念ながら研究者でも無い私が語り得るテーマではありません。興味のある人は著作を読んでみてください。
寅さんは「旅人」を偽装した「観光客」だと言うのが私の結論で、偶然にも寅さん第9作において我が町でロケされた駅舎(廃線になった永平寺線京善駅)での会話シーンが示唆的です。
(下に動画のリンク、吉永小百合さんがマドンナです。)
旅先では「旅人」(移動し続ける根無し草)を偽装した「観光客」(帰る場所がある無責任な旅行者)。
柴又に帰れば「村人」(共同体に属した定住者)に戻る、それが寅さん。

「誤配」について私見を。
東の師匠柄谷行人は「交通」という概念で、コミュニケーション等根源的な人間の活動について語りました。
自分も学生の頃、柄谷を読み漁りました。
将棋に深く関わるようになった最近は、柄谷の有名な「教える-学ぶ」という図式が将棋の駒落ち指導対局そのものだと感じていました。上手と下手のお互いの非対称的な関係性が、今では手垢のついた感のあるワード「他者」そのものだと。

東は「交通空間」ではなく「郵便空間」を提唱しています。
「郵便空間」では「誤配」(配達間違い)や「遅配」(配達遅れ)が連発する。
そういった配達のエラーをシステムの不完全性として忌み嫌うのではなく、「誤配」すなわち配達の失敗という予期しないコミュニケーションの可能性を希望とみなすことこそがビビッドで人間的な営みである、と自分は理解しています。

将棋を「郵便空間」と見なすと非常にわかりやすく、「誤配」(お互いの勘違い)の連続でもすばらしい棋譜につながることもあり、「誤配」は(感想戦で)事後的に確認し合わないと起きたことすら気づかない。
定跡をなぞり続けるだけの対局では「誤配」は起きないが、定跡を外れるまで新しいことは何も生まれません。

以前紹介した小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」ではまさに郵便による対局(チェス)が行われました。
ミイラとリトルアリョーヒンの哀しい結末はミイラの意図的な愛のこもった「遅配」が生んだもの。
その「愛のこもった遅配」というメッセージの意図は伝わらず、残念ながらリトルアリョーヒンに「誤配」されたわけです。(ややこしい)
この物語においては「誤配」に希望があったのかどうか難しいところではありますが、「誤配」の事例としてとても比喩的です。

そして、寅さんの恋は「誤配」だらけ。
「誤配」の連続で盛り上がり、結局最後は旅に出てリセット。
旅先では「旅人」を偽装しているが本質は「誤配」の種となる「観光客」。
また熱い恋がスタートし「誤配」を繰り返す。
素敵だ。

将棋もネットもSNSも「郵便空間」。

将棋の対局においては多くの場合、指し手の意味が相手に正確には届きません。
勝負の世界なので届かない方が良い場合も多いでしょうが…
またネットやSNSを介すると、真の思いが届くべき人に届かず、相手への思いやり・将棋の普及や将棋界への貢献という強い思いが逆に攻撃ととられることも。

より深く理解しあえれば解決するのか?
たぶん「誤配」を楽しみ受け流す心の余裕が必要なんでしょうね。

「敵は我にあり」でしょうか…

「誤配」について考える。」への1件のフィードバック

  1. 速度や効率を求めていくとどうしても【誤配】が増えます。
    効率を下げずに速度の低下を避けるなら表記の揺れを減らします。
    この場合、表記の揺れを減らしたことで【人】から【機械(棋界)】を相手にした感じになります。
    当然ながら人と人の間にはあえて文字数を増やし表記の揺れを作ることでうまくいく部分もあります。
    最終的に、至高の棋譜を見たいだけでいいのか?
    その棋譜を見たいと感じる人が減る現実を受け入れる覚悟があるのか?
    そういった答えが見えないまま進めていくと将棋界は終わってしまいます。
    誰もが、自分が死ぬ前で痴呆症になる前のなるべく価値を理解できる段階でその至高の棋譜を見たいという考えと向き合うことになると思います。
    私はその向き合う時期がちょっとだけ早かっただけだと思っています。

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